一般社団法人大阪府建築士事務所協会

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・ぶらり大阪”景観”ウォーク

(5)長居プール~水辺を感じさせるデザイン~

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 長居プールは1999年に竣工した市営のプールで設計は、建築家の故・黒川紀章 氏です。水をテーマとした波型の大きな屋根が特徴となっています。夏用の屋外プールと、1年通して楽しめる25mの室内プールに加え、ボルダリング施設やバレエやダンス教室等を行うスタジオを備えています。

■「長居」の起源
 「長居」という町(村)の名は、もともとあった堀村、前堀村、寺岡村の3つの村が1894年に1つに統合されたとき「長居村」と名付けられたのが最初でした。その由来は、当時同じ場所にあった貯水用の池・大御池の別名である長居池から取ったとされています。
ただし、今から7~800年前(鎌倉時代)頃に、現在の長居付近を詠んだ古い歌に「長居」、「長為」、「長井」という名が出ており、その頃からすでに長居と呼ばれていました。

■「百済」の地名
 東住吉区内での百済の地名は1889年に鷹合・砂子・湯谷島・中野の4カ村が合併して、南百済村とされたことにちなみます。現在は南百済小学校や百済公園、百済大橋などにその地名が残るのみで、行政上での地名はなくなっています。日本書紀(続)などによると、百済が唐・新羅との“白村江の戦い”(663年)の敗戦で完全に滅んだ後、日本に残された百済の皇子を難波に住まわせたとあります。以後、天武天皇、持統天皇の時期には百済王として優遇されており、百済人が皇子を頼って続々と亡命してきたので、この一 帯を百済と呼ばれるに至ったようです。天王寺区堂ケ芝から細工谷(上本町の南側、鶴橋~桃谷の付近)には百済寺跡、百済尼寺跡とされる遺跡があります。一族の住む場所が次第に物流や交通の要所となるに及んで、天皇は一族を枚方の地に移住を命じ、難波の百済は消滅しました。枚方市禁野1丁目にある遺跡は、百済王族末裔の墓であるとされていて、百済寺跡は国指定の史跡となっています。
 その他に、関西本線東部市場前駅に隣接し「百済貨物ターミナル駅」、大阪市立南百済小学校があります。また、平野川は古名を「百済川」ともいいました。

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