一般社団法人大阪府建築士事務所協会

建築士が案内する
・ぶらり大阪”景観”ウォーク

(8)針中野中野鍼~針中野=駅名となる~
所在地/大阪市東住吉区針中野3-2-17
営業時間/9:00〜17:00
定休日/火曜日

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 中野鍼は782~805年頃(平安時代)に設立されました。屋号は中野降天鍼療院です。平安時代から一子相伝を守り、男児に恵まれない時は女性も当主として鍼灸術を習得し現在に至ります。ここは平安初期に弘法大師が布教の途上、当家に宿を借りたお礼として、当時もっとも進歩した鍼術とツボを示す「遂穴偶像:大人と小人の丈1m弱の木像」2体と金針を授与されたとのことです。
 中野鍼の門前は、焼杉(下見板張り)の黒と、漆喰(腰壁)の白がきれいなコントラストを見せています。
うだつや小庇もきれいに漆喰で塗られています。看板には、“なかの鍼”と彫られています。門は屋根付きで、むくりの付いた瓦葺で、神社、仏閣のようです。
懸魚もあります。京都の東寺慶賀門にも懸魚がありますが、干物のように5匹も吊るされています。懸魚は、塔の上の水煙や屋根瓦の端にある鴟尾と同じく火伏のおまじないといわれています。東寺の懸魚をみると、大昔は本当に魚を吊っていたのではないかと想像してしまいます。
また、豊漁祈願や神様へのお供え物のようにも思えます。
 平安時代から続く中野鍼ですが、南北朝の頃には足利軍の戦火で屋敷を焼失しました。しかし弘法大師伝授の木像と鍼、漢方薬書は無事に残り、現在まで中野家に伝えられているそうです。古地図では宝暦3年(1763年)摂州平野大絵図に中野村小児鍼師と記されているのが確認できるそうです。明治期には41代目当主が医師の免許を取得され、西洋医学も取り入れながら独自の鍼法を築かれ、近畿一円から“中野鍼参り”として1日500人以上の人々が殺到し、屋敷内には遠路の来館者を泊める宿舎も設けられました。
 大正3年、南海平野線が開通したときには中野駅から鍼院まで7カ所の道辻に石の道標が建てられました。
その41代当主は大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線)の開通にも尽力され、そのお礼として大正12年開通のとき、駅名を“針中野”としたといわれています。

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